ドローイング_猫

駅の構造、というかその巨大さに憧れる

それは憧れるよ

結局本という形式が基準に意識的にではないにせよあったわけで、そうではなくこれが形式なのだとしたらそんな構築物を築き上げるようなことをしなくてもいいんじゃないの?

数百文字の断片の切り貼りで繋ぎ方というのは後の話、方向音痴の見る風景、論文ではなく会話のように、毎日の食事と、家の猫の表情と、やはり気分、歩きながら振り返らないから帰り方を見失うんだと良く言われ

本は憧れとして、ずっしりして人生を語り時間を超越して、言い過ぎか、でもさすがに長い歴史を席巻しすぎて、例えば文庫一冊何文字くらいだなどという意味のない逆算をしてしまう

本当に憧れるのが、放哉やペソアなんなら、駅より路線図くらいの広い範囲にポツポツ起こるなにかで良いのかもしれなく  大それたこと言うまでもなく既にやってくれてるんじゃないか

いろいろな人がそのくらいの規模でポツポツと喋りその界隈を方向音痴的な徘徊をする、目指すものがないから方向音痴でもないのか、路地をうろうろ写真を撮りながら歩くようなもので、あとあと気にいった写真は少しの間壁に飾れば良い

本や駅ではないところに身体を合わせたら、考え方だって変わっていいはずだ、こちらが猫になればいい