随筆

アーカスで行った企画の際、実家に近いこともあって父親が遊びに来ていて、そのとき話に出していた「綴り方教育」というものに興味が湧いている。

知人からの話で父親は知ったことのようだが、明治くらい?に子供達に日々の暮らしなどについて作文を書かせそれについて教師が意見したりなんだりというような内容の教育方法というものがあったらしい

アーカスの藤本さんとそれってドローイングですよねとなった。まぁ、決して変わったことをやっているわけではないのかもしれないが、自分の意思を綴るということは、自分くらいの世代の教育でもそれ程積極的に行われてはいなかったように思う(変わったことじゃないのに、、)手間もかかるからだろう。けれど、なにかを企て(いい意味で)る素養を培う上で間違いなく意味のあることだろう、言葉を持てるわけだから

綴り方  というネーミングの美しさも惹かれる要素として決定的なのだけれど、さっきのドローイング云々ではないけど、恐らくなにか作っている人間なら確実に気がついていることなのだろうけど、確定した意識を媒体に翻訳して表現をしてるのではなく(ここは前に穂村弘さんの引用かなにかで書いた気がする)、媒体と意識の接点でなんか反射の繰り返しみたいなものがあってそれのハウリングノイズみたいな感じで起きるのが表現や意思なんだろうと、例えば誰かとの会話なんかでその場の表情やら声色やら様々な要素への反射の繰り返しで自分の意識なんてものは確定したりしているなんても言える気がしてしまうのだ(顔色伺うみたいなネガティヴないみじゃなく、どっちかというとブレストみたいなこと)

だから自分に対しても常に描いて書かないといけないなぁと自戒するのだけど、この教育方法の効果とか、また自分の企画への反映としても調べるべき内容なのかと思って気になってきている。

そんなこと考える前に、ワークショップ、ページに早くアップしないといけないし、ポスターも訂正しないといけないのだけれど。。

恐らくこういう考えだから、私のコンセプトはこれこれでと設計図をみたいな言葉を言い切ってしまうタイプは嘘つきだと捉えてしまうふしがある。方向性によってそうでないといけないものはあるのだろうけど。

逆に言葉にならないような言葉とりあえずあてちゃってるようなのも、それもなぁと思うけど