随筆

フォントについて

本阿弥光悦、俵屋宗達の鶴下絵三十六歌仙和歌巻

ほんとに格好いい作品、文字と絵の合わさった一つの完成となるのかなと思うのだけれど、、ふと思うのは言葉読めないよなぁと。

古語というものがあるように、(視覚に関わらない)言語の通じる時代の範囲はあるのだろうけど、フォントにも時代の適用範囲、或いは流行りというのがあるのだろうと気になったので備忘録として

少し前に岩波のコンセプチュアルアート読み直していて、6〜70年代あたりの歴史が純粋な概念に向かっていって、その後、結果ディテールの重要性に着地してる話もなんか繋げて考える内容な気がする

前に書いたことかもしれないことなのだけど、絵を見るときの距離の話を聞いたときに文字はそれが固定化されるよなぁと考えた。改めて絵巻や漫画は形式として、そういう文字を読む為に固定化された距離に適切な図像の表現として最適化されている気がする。

逆に、一枚で様々な距離で読む絵画と文字表現を考えてみる、断片的な構造の小説みたいなものが上手く適合しそうな気がする(丁度カルヴィーノ読んでたので、そんなことを思った、超面白い小説、やっぱりリスペクト)

多分自分は小説なんかにストーリーを求めていないからこう考えるのだろうなと思う

書画同源なんて言葉があるけど(ちゃんと勉強してない)そもそも、書って読む意識ないのかも、ちゃんと調べる必要がありそう。

お経が音だったり、マニ車なんてのがあったり、聖書はロジックで、だから理性のある鯨を殺さないのかななんて簡単に考えていたのだけど、文字の捉え方のそれも繋げて考えられることのようにも感じてみる。(多分物凄く浅いアイデア)

そうなるとグラフィティの目的、思想とかはどうなるのだろう