ドローイング_猫

表現するということは、相手に対し形式の信頼を前提としないとそもそも成立しないと信じていた。概念、文法の共有を信じているからこそ相手に躊躇いなく言葉というものを発し、それが絵画として捉えられることを信じているからこそキャンバスなんてものを疑いもなく木の枠に貼る。その前提を意識し疑い初めてしまうとこれは実際異様な状況だ。

お前にとっての絵ってなんなの?例えばこんな台詞にせよ「絵」は共有できてるという信頼には疑いはない

そして野心をもって、その文法や概念を揺り動かそうとするにせよ、そこにはお互いに形式、歴史の信頼がある前提のもとの侵犯や越境なのだということは、自覚的な表現者である以上疑いようのないことなのだろうと、そう信じていた。
しかしそれもこれも此方側の期待の押し付けだったのかもしれない、そして信念はぐらりと揺らいできている

猫は世界の理由の合間をするすると縫い歩く、そういえば、生きる為の筈の労働も、それとは全く関係ないような価値観でそのモチベーションが変化してしまうとすこし前に考えていた気がする、こんな単純そうな物事でさえ予測なんてつけられそうもないのだとしたら

理由や、文法なんていうものだけではなく、美といったような抽象的な価値観なんてよくわからないものがそれらと絡まり合って人々の意識はお互いに極めて複雑に関係しているのかもしれない、もうわからない、論理のような簡潔な説明はつけられない。

お前はなにを考えている

予測のつかない世界を場当たりで生きるしかないじゃないか

猫は私の表情をじっと観察している

なんだ、俺を評価しようっていうのか、お前は

猫はテリトリーであったはずのグリッドから悪びれる様子もなく脱走する

轢かれてしまうぞ、それでも外にでるのか?

私も追わなければいけないのだろうか?留まることだって間違ってはいないだろう、そういう生き方はあるのだから、それとも間違いという観念自体がそもそも囚われているということのだろうか、私にはわからない