ドローイング_猫

実家の猫を観察する

ウチの猫は、家猫だ、昔、先代、先先代、が脱走し家の向かいの道路で轢かれてしまい、家族はその度に哀しみにくれ、今のこいつは家から出ないよう注意深く飼うことになったのだった。

猫にとって私の実家の中の空間のみが全世界で、毎日その組み替えが猫の意識になっている。不憫な気持ちはあるのだけれど、轢かれてしまうより幸せなのだろうか、それに対しての答えを見つけることはできない

毎日同じものを見続けるというのは、苦痛なのだろうか、案外思想家のような人のエピソードに旅行嫌いという話を聞くことがある。確かに、宇宙の果てに行けるのかと考えてしまえば、地球だろうと狭い空間ではあるし、ミクロの世界に視点を移してしまえば、量子〜なんて言ったらそれだって宇宙の果てだ、それに簡単な言い方だが、足元ですら存外見落としているものだったりもする

隣にいる人の頭の中ですら、冥王星よりも遠く離れている、というのもテンプレな喩え

実家から100kmほど離れた今の住まいで、まだ服やらなにやらに猫の毛は纏わりついている

猫と私は海に到着する

砂浜の手前の駐車場に車を停め、とりあえず海に向かう、砂浜は脚がとられる、猫にとってもそうなのだろうか。流石にこいつとのテンションで海に走って飛び込むなんてことなく、お互いに脚に波が被ることのない距離で、なんともなしに海を眺めている。

猫はタバコを燻らす

ロードムービーみたいにしようとすればひととおり体裁は整うわけだ、だから移動させた、自分だけで考えるのは億劫だから旅をさせてしまえば自動的に物語ることになる、そういうこと。それに、連綿と続く形式に則ることは世界を理解しやすく読み込みやすく変異させる、そして、私はそれを変えてみようと試みて、、そうだ、猫を殺す。いや、それも違う、それは作為のある分断だ、期待を押し付ける分断は分断とは言えない