ドローイング_猫

私はなにかまた息が詰まった気がして、猫を誘い近場の海に車で出かける。猫は窓を少しだけ開けてタバコを吸っている、外に流れる景色をなんともなしに眺めながら

猫は音楽を選んでくれた

私は猫と年齢的な会話を交わす

家を買うということやら、結婚、子供をどう考えるか、保険はどうするか、仕事をどう選ぶべきか、その他いろいろと

夢のない話などというのか、例えば10代の人間からすれば生活臭い固まってしまった話題なのかもしれないが、シュミレーションゲームだなどといって日常の面倒ごとを遊びとして二重に経験することを楽しむなんていうサンプルが示すように、我々の大半は生に対して、普通である生をクエストすることに対して案外ポジティブなのだ。何処かでそうではない魅力を広告されたかなにかで拗れているだけなのだ

猫はこういう話を自然に聞いてくれるのだけど、こいつに興味があるのかはわからない、とはいえ私がそれに助けられていることは間違いがなく、猫は猫で、嫌がるわけでもなく付き合ってくれるのだ 

小一時間ほど走ってから、パーキングエリアで休憩を取る。適当な昼食を2人でレストランで取ると、猫はお土産のコーナーを少しだけ流して一人タバコを吸いに行く、猫は駐車場の方を静かに眺めている

私はトイレに寄ってから猫と合流する、あと一時間も走れば海に着く

普通の生き方を楽しむ人にとって猫の居場所は少ないし、そういうポジティブな世界から外れた風景とでも言える空間に猫は縄張りを持っている

一般的な生を踏み外した人間は、風景に引き寄せられて仮構の猫を飼うことになる、或いは猫がそういった人を見いだして、憑いてしまうことになる、軸の歪んだ代替された楽しさの形なんて言うことだってできるだろうが、何故かそこにも、むしろそういう場所にこそ歴史があって、意味を与えてしまうなにかがあるから猫は生き続ける。

そのなにかとはなんなのだろう。
海が見えた

猫は相変わらず外を眺めている