ドローイング_猫

日本語はマス目を足場に動き回る、それではと他の言語圏でも考えてみる、マス目ではないとしても少なからず1つの線として世界を捉えているには違いない、今迄身体に染み付いた言葉としての時間という秩序だ、或いはルール、文法、世界に筋書きを少なからず押し付けて、そしてその期待を前提として、この世界は読み込めている、そして世界の中に落ち着いている、但し、それはシンプルな世界の住み方、ワープやジャンプのできない平坦で直線的な世界だ

猫はワープして、ジャンプもする、こいつが一個の仮構なのだと決めつけていたのも俺の期待している世界なのかもしれない。本当は分裂しているし線の流れも分断しているのかもしれない。何匹かでじゃれ合って世界自体を拡張していやがる、あの脚で空間を踏みしめながら。そして憧れる、期待しない世界では裏切られることもない。

まぁそれはいい、しかし、いくら楽しくなったからといってマス目の単位にまで分裂してはいけない、物事には節度が必要だ、そんなのは意識の住める世界じゃない、帰ってこれない自由な世界だ、身体との接点がとれなくなってしまう、最低限の時の感覚みたいなものは猫たちだろうと意識している、足場が必要なのだ、跳躍をするにしても

そして、今まさに綴られたこの世界は更新した俺の期待が綴られた世界になってしまったのだ。

分断しよう