随筆

原稿用紙についてもう少し、とりあえずはネットで調べてみる。海外(英語など)との比較はちゃんと知らなかったところ。升目に書くのは無理あるよなと思ってはいたけどやはり升目を使うことはないようで、横線となるよう。また文章量をカウントする場合、海外では文字数ではなく、語数が普通のことのよう。小中学校からテストやらなにやらで200字以内で〜のような制約に馴染んできた身としては不思議なことである。こっちのほうが圧倒的に少数なんだろうけど。

イメージを用いた思索というものはとりあえず脇に置いておいて(美術やってるのにどうかと思うけど)、一般的な考えにあるように思考というのが言語での論理だとするのなら、日本人の思考というのはこの制約による意識への干渉が関係してるなどという考えを試しに浮かべてみる

穂村弘さんのエッセイになにかとてもこの状況に関係できる言葉があったように思う。言葉はアタマの中のものを緻密に翻訳してるのではなく、エネルギーを言語化する過程で言葉に汚染されるとかそんな言い方だったような…  

手元に書かれたものとアタマの中とは同時に書き上がっていくもので、手(外)からのフィードバックがあってのものと常々考えていたので、なにかモノを作る上での直感として凄く共感できたように感じ、刺さった記憶があった

アイデアがお酒の席なんかで人と話しながらアドリブで出た言葉から進むことは良くあったりするし、ブレストなどと言って誰かとの会話の中で思索を加速させることなんかについても、そして、手を動かしながら考えるドローイングという制作へのアプローチについても同じようなことなのかもしれない

それを考えると、文字数で考え続けてグリッドに入れることに慣れた論理というのはなんらかの癖が染み込んでいるのではないか?というのはあながち無理な考えではないと思うのだった。そして、イメージでのブレストってやったらヤバいのではないか?とそんなことも考えてしまったのだった。