随筆

引き続き片付けることについて、抜き差しならない状況になってきたので少しだけでも整理を進める。簡単に本や図録を買ってしまうことのツケが回ってきたようだ。自分が管理しきれていない感覚はなにかストレスにすらなってきていて、リアルに物欲に歯止めがかかりそうな具合である。今お金つかうならモノより食べ物とか旅とか体験に使ったほうが軽快でいいなぁと本気で思ってきている自分がいるのである。

いつの時代であれ、似たような性質の人間なら同じような状況にはなり得るわけで、これを時代性などと簡単にはいえないと思うのだけれど、なんとなく例えば写真をアルバムにしていた時代なんかのほうがデータで沢山保存や収集をできる時代よりもいろいろがコンパクトだったんではないのかなぁと思ってしまう。実際アルバムなら見返したものが、データの写真を自分は殆ど見返さない、なんというかその時間がない。需要過多で単価が下がっている経済の状況のような気分である。そういえば、昔のほうが、苦労して手に入れたCDを聴き込んで、、みたいな話は実際最近良く話されていると思う。自分もそうだなぁと思うけど、あれ?懐古主義なのかこれ

見る側としてはむしろ逆に青空文庫みたいにいつでも引き出せる共有財産みたいなものに全てがなってしまえば片付けがなくなって良いのになどと勝手なことまで考えたりするけれど(過多は過多といえるのだろうけど、なんでだろう少し感触が違う、所有という在り方になんか原因があるのだろうかしら)、それだといわゆる作品の売り方は難しくなってしまう。
とはいえ、仮にこれが時代性なのだとしたら、ものを作ることってどうなんだ?とちょっと考える。ははぁそれでワークショップとか、なんて。しかし、体験ができるワークショップ(むしろ教室)みたいなものを経済の軸としつつ、作品も体験として、商品としての在り方をモノベースではなく考えるのであれば、案外それってとても純粋な社会との関わり方の方向性なのではないだろうか。

といってこんどは、字面通りにそれを捉えると、外で散策しながら云々とかワークショップとかみたいなことになるのだろうか、でもそういうものを見ていると、部屋に一枚だけある絵をゆっくりと眺めるなんて方がいいなぁなんて思わせられることがある。(勝手なもんだ)同じ体験ならこういう方がいいなぁと、だから所有をせずにこういう体験ができる場所があったら、或いは少しの大事なものを所有することができるなら、そういう方向のほうがいいのかもしれない

単純にいろいろが多すぎるのかも